母親が生きた日数を越えた

日付が変わり11月26日。今日は僕が生まれてから17,749日目になる。数字的には特にキリの良いものではないが、僕の人生においては一つの区切りとなる数字。母親が生きた日数を越えたのだ。
 
 
***

1992年8月23日昼。叔父(母の弟)と一緒に病院にお見舞いに行った。入院から4ヶ月半。母は毎日徐々に衰弱していった。医者も何もしてなかったわけではない。ただ母は何も改善していない。それでも母は「先生は悪くないから、ちゃんと挨拶とかするんだよ」と気丈に言った。そして擦れる声で「退院したらスイカが食べたいな」と言った。水を飲めない状態だったから、喉が渇いていたんだと思う。「いいね、スイカ。今度食べよう」そんなことを言って病院を後にした。

その夜、父、妹とテレビを見ていたら電話がけたたましく鳴った。病院からだった。「至急来てくれ」と。急いで準備して病院に向かうと母は苦しそうなもだいていた。緊急手術が行われている間、ただ黙ってベンチに座っていた。

日付が変わった8月24日未明。母は病室に戻ってきたが、息も絶え絶えといった感じ。僕らはただベッドの周りで祈るしかなかったが、やがて全てを悟ったかのように母は目を開いて僕らに視線を送り、そして目を閉じた。しばらくすると心電図から「ピー」という音が聞こえた。ドラマなどでよく見かける情景。享年48歳。

父、妹はその場に泣き崩れた。僕は立ち尽くした。

自宅に戻るとすぐに近所のスーパーに走った。走る必要はないけど、走った。そしてスイカを買った。一刻も早くスイカを食べてもらいたかった。もちろん物理的に食べることはできないんだけど、早く用意してあげたかった。真夏の暑い日だったし、もう30時間くらい起きっぱなしだったので足元はフラフラしてたけど、走って買ってきて、母の枕元に供えた。

 
***

母は一般的に身体に悪いというようなことはしてなかった。それでも死ぬ時は死ぬ。どんなことをしてても死ぬ時は死ぬ。個体差なんだなと。個体は遺伝によって伝わっていくので、僕も48歳で死ぬ可能性あるなというのもその時強く思った。

一般的には寿命はどんどん伸びてるし、僕が48歳で死ぬ可能性ってのは結構低いとは思うんだけど、可能性はずっと感じていた。41歳の時にバセドウ病になり、その後も2度再発してるので、「これはもしや…」と思うこともあった。日常の会話で「死ぬかもしれないからさー」とたまに口にしてたが、半分冗談だけど半分はマジだったりする。

母が生きた日数17,748日を越える時がいよいよ近づいてきたが、頭のどこかで、生きて今日という日を迎えることができるか半信半疑だったりもした。そしてついに越えた。

 
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僕はあの時16歳だったので、「48歳7ヶ月」というものがよくわからなかったけど、実際にこうやって母が亡くなった日数になって思うのは、「さすがに早過ぎるな」と…。そんなに生に執着のない僕でも「もうちょっとは生きたいな」と思うので、あの時の母はもっと生きたかっただろうな。改めてそう思った。母がもし生きていれば80歳。あの時中3だった妹にはなんと孫がいる。母にとってはひ孫。びっくりだね。

僕はもうちょっと生きそうなんで、死ぬ時まで頑張って生きようと思う。
 

(親子ともにジャイアンツファンじゃないのに、なぜこのTシャツを着てるか謎なのだが、4歳の僕と母。あんまり写真無いんだよなぁ)

 
 

2024/11/26 

母親が生きた日数を越えた

この10年

プロローグ

今から10年前の12月30日22時半。コッソリとブログを更新した。『これまでの10年とこれからのワクワク』と題したいわゆる「退職エントリー」というやつである。僕は創業から携わっていた会社を翌年2月末で去ることを世の中に告げた。とはいえ、年末押し迫った30日の夜。誰もインターネットなんぞやってないだろうと思っていた。しかしヌルっと界隈には広まり、SNSやら謎メディア『netgeek』などで少し話題にされた。
 
この時点では本当に次の進路について全く決まってなかった。27歳10ヶ月までフリーター(ほぼニート)生活をしていた僕が縁あって創業期の前職に潜り込んで10年。まともに就職したのが前職が初めてなので、この時が人生初の転職活動であり、何をどうすればいいのかもよくわからなかったが、有給が一ヶ月半くらい残っていたので、その間に決めればいいかなって思ってた。
 
退職エントリーを読んだいろんな人から「ウチに来ないか」とお誘いいただいたんだけど、その中で異業種で正直どんな業務があるのかもわからないVCに行くことに決めた。そのあたりのことは転職エントリー『フェローになりました』を読んでいただくとして、まぁとにかくEast Ventures(EV)でお世話になることになりました。
 
どういう業務が待っているかはわからないけど、僕もそれなりに経験あったし、なんとかなるだろうと楽観視してた。さすがに若い大学生とかと比べたら「できる」だろうから、いろいろ教えてあげちゃうぞーと思ったりしてた。転職前に何人もの大学生インターン、若い起業家などと話す機会もあり、「みんな優秀だなー」とは感じていたけど、まぁ言うても大学生でしょ、20代前半でしょ、と。僕は(自分で言うのもなんだけど)わりと謙虚な方だとは思うだけど、正直そういう気持ちも少しはあった。
 
 

衝撃

転職初日。今や笑い話として伝説化している「てるま事件」が忘れられない。けど、てるまのおかげで初日からみんなと仲良くできた気がするので、とても感謝している。この日は木下さん鶴岡さんアンリさんなど、いろんな人が「303」に来てくれて、ご挨拶することができた。アンリさん、てるまとは夜に食事にも行った。帰りに六本木ヒルズあたりを歩いていたら、ストリートビューの車が停車してて「六本木すげー」と思った。
 
二日目。太河さんに誘われて近くのカフェ『breaq』に行き、太河さんはそこで僕がEVに転職したことをFacebookに投稿した。「この内容で大丈夫ですかね?」と確認しながら慎重に投稿してくれたのを思い出す。ちょっと感激した。オフィスに戻ったあと「SEOが得意な若者がいるんで、大柴さんの知識を教えてあげてください」と太河さんに言われ会ったのがアリコー。話して数分で「やばい、僕なんかの知識と比べるレベルじゃない。圧倒的に高い。それにまだ20歳そこそこなのに、経験も豊富。正直教えることなんか1mmもない…」と感じた。
 
そして今度は鶴岡さん。外から見てた印象は「ネット大好きお兄ちゃん」って感じだった。それはそれで正しいんだけど、もっとぼんやりした感じの人なのかなって思ってた。でも実際に話してみると印象は変わる。想像以上に頭がキレる。そして経営者としての器の大きさを感じ、「こりゃとてつもない大物じゃないか…」と衝撃を受けた。
 
アリコーに鶴岡さん、その他次々に現れる優秀な若者たち。「いろいろ教えてあげちゃうぞー」という気持ちは木っ端微塵に砕け散り、「この先どうしたらいいんだ…」という恐怖とも不安とも言えない気持ちに包まれた。まじでどうしよう…。
 
 

(もらったステッカーを貼ったMBA。ステッカー余白部分をちまちまと切ったりしてから貼った。)
 

進化するためにここにきた

ここからの選択肢は大きく2つあると思う。1つ目はこれまでの経験、知識に基づいたフレームに固執し、そのフレームを相手の状況を鑑みずに当てはめるやり方。「知った風」を演じながら自分の成功体験にだけ基づいたフレームを押し付ける。全てが間違ったことを言ってるわけではないが、状況にそぐわないケースも少なくなかったりする。そんなスタンスのおじさんはわりと多い。2つ目は、素直に自分の無力さを受け入れて、アップデートしていくやり方。昨今話題になっているキーワードである「リスキリング」のようなことかな。それはそれでけっこう大変。
 
前者をやるのは簡単かもしれないけど、でもそれってなんかカッコ悪いなって。そもそも自分の経験、知識はたいしたことないことを悟ったし、進化するために転職したので、ここは後者の方を頑張っていくしかないと心に決めた。とはいえ、学校にきてるわけじゃないので、学びながらも一定の価値を提供していかなければならない。自分に出せる価値はなんなのか?それを日々考え、模索する日々が始まった。
 
とりあえず自分にできることはなるべく全部やろうと思い、営業同行やランディングページ作成、ライティングのお手伝い、オフィスの掃除などなど、実務面でのサポートにまずは取り掛かった。ただそんなに価値を出せた気がしない。しかしやるしかない。実務をやりながら、自分が提供できる価値は何かを模索していた。毎日無力感に苛まれていた記憶がある。

そんな中、自分のフレームを押し付けずに相手の状況、本音、悩みなどを素早く理解して、適切と思われる回答をしていくことをしようとしているうちに、「聞く力」がついてきた気がした。単なる傾聴力ではなく、「聞く力」。簡単に整理すると、

・聞く力がある:
 相手の話を理解でき、かつ相手の話を聞いてあげることができる。また、相手が「この人には話していいんだ」「話したい」と感じる

・聞く力がない:
相手の話を理解できたとしても、相手の話を最後までちゃんと聞かない。また、相手が「この人には話したくない」と感じる

こんな感じの整理。僕には特段すごい能力はなく、何かのスペシャリストではない。僕のような凡人が、すごい能力がゴロゴロ存在するスタートアップ界隈で生きていくには、この「聞く力」ってのが僕にとって重要なんじゃないかなって気がした。日々の業務でも鍛えられたし、転職と同時期に始めたBRIDGEでの連載『隠れたキーマンを調べるお』の経験も「聞く力」を醸成するために役立った気がする。
 
 

カサンドラ

一方その頃家庭では大きな問題に直面していた。奥さんがカサンドラ症候群のようになってしまったのだ。結婚して10年。無意識に奥さんを振り回し、不信感を貯めさせてしまっていたようだ。自分はけっこう良い夫だと思っていただけにショックだったし、どうしていいかもわからなくて悩んだ。職場でも家でも悩む日々。しかし元は全て僕の責任であるので、解決にむけて試行錯誤していった。2016年は正直辛い一年だった。しかし2017年明け、ようやく解決の糸口が見え、そこからは徐々にであるが平穏な日も増えていった。
 
そして、この時期にいろいろ悩んで考え、試行錯誤したことがその後の起業家たちとのコミュニケーションにも活かされた気がしている。
 
転職初期に優れた若者と出会ったことによる「自分の価値の模索」、奥さんとの関係改善における試行錯誤、認識の調整。どちらも大変だったけど、そのおかげでかなり進化できたと思う。最初の3年に起きた二つの出来事がその先の僕を大きく変えた。めちゃくちゃ成長した実感がある。
 
 

VC向いてないんじゃないか?

仕事において自分が価値提供できることは何かを考えていた頃、同時に「VC向いてないんじゃないかな?」という思考も常に存在していた。前職では主に経営陣として過ごしていた。経営とは「決定」するのが仕事とも言える。一方でVCに転職後は、投資先起業家とのMTGなどで「こっちの方がいいんじゃない?」と提案することはあるが、決めるのは起業家の仕事である。「決められない」もどかしさが自分の中に溜まっていくように感じた。
 
しかし、客観的立場で物事を見て、相談にのったりすることは向いているように思えた。前職時に「経営企画室とか社長室とか、そういう事業部に属さないポジションにおいた方が価値を発揮できると思うんですよね」と社長によく話していたが、まさに今やってる仕事はそれに近いのではないか?それに気づいてからVCに向いているのかもしれないと逆に感じるようになった。まぁ単純に仕事に慣れてきたってのもあるかもしれないが。
 
そんなこんなで転職から3年は悩み、模索する時間が多かったが、若い優秀な人たちとコミュニケーションとるのは楽しかったし、携わっていた会社がどんどん大きくなったり、MAされたりするのを間近で見ることができたのはとても大きな財産になったなと感じている。あの日あの時あの場所にいなければ見ることができなかった景色。すごく良いタイミングでスタートアップに携わることができたなと思う。
 
 

本厄

家庭の問題もようやく上向いてきた気がした2017年。体調というか気分的に元気になってきて、毎週無闇にすごい歩いていた。散歩ってレベルじゃないくらい歩いていた。国道1号線沿いにある地元駅から「徒歩でどこまで行けるか?」にチャレンジしたりもした(結果、保土ヶ谷で景色に飽きて、電車で大磯まで行き、そこから平塚まで歩いた。合計25kmくらい)。多肉植物や観葉植物を大量に購入して育て始めたり、ダシイレさんとイベントしたり(ダシイレ調べるおナイト)、単独イベント「調べるおmeetup」も開催した。とにかくアクティブに過ごした。
 

(ファンコミュニケーションズさんのオフィスをお借りして開催した「調べるおmeetup」)
 
小部屋が整備されたのもこの頃。居場所ができたことで、毎日小部屋に出勤するようになった。また毎日小部屋にいることで、「小部屋に行けば調べるおさんはいる」というブランディングができあがり、いろんな人が気軽に立ち寄ってくれるようになった。コロナで小部屋文化がいったん途切れてしまったが、来年以降徐々に復活させていきたいものだ。そんなわけで、一見して順調そうな毎日のような感じだったが、この年は「本厄」。これで終わるようなことはなかった。
 
春先から「夜ごはんだけ炭水化物抜きダイエット」というユルい取り組みをはじめていた。今までどんなダイエットもうまくいかなかった僕だが、なぜか今回はガンガン痩せていった。4ヶ月半で14kg痩せた。マジでこのダイエットすげえ!と思ってみんなにドヤっていたのだが、結論「単なる病気」だった。甲状腺の病気であるバセドウ病になってしまっていたのだ。アクティブな気分になっていたのも、病気のせいだったかもしれない。バセドウ病投薬治療が開始され、わりとすぐにホルモン値は落ち着いたが、「死」というものを身近に感じてしまい、なんらかの生きた証を残さなきゃ!という気持ちになって、いくつかのWebメディアからのインタビューにこたえたりした。有名なとこでいうと『CAREER HACK』。
 
 

2018

体調は比較的良くなってきて、通常業務は全く支障のない程度にまで落ち着いた2018年。毎日小部屋に出勤して、たくさんの来客をお迎えしていました。ただ、一番小部屋にやってきていたのは木下さんですが。
 
そんな木下さんの訪問回数を超える勢いでこの頃小部屋にやってきていたのが、同じビル7階のEVシェアオフィスにいたFinT大槻ゆいちゃん。EVでのインターン、留学、スタートアップインターンを経て2017年に起業したものの、共同創業者も去り、事業も全く上手くいかず、キャッシュも底を尽きかけていた。とりあえず毎週定例MTGをやることになり、FinT立て直しの策を一緒に考えた。まぁけど僕がやったことは悩みを聞いたり、お菓子をあげたりしただけなんだけど。その後、秋から現在の主力事業であるSNSマーケ事業を開始したことによってついに上昇ムードになっていき、そこからの大躍進はみなさまもご存知の通りかと思います。

一区切り感

EVとは別に2015年末から前職の非常勤取締役になっていたのだが、2019年3月をもって退任した。ずっと保有していた株も手放した。そのほか、いくつかお手伝いしていた会社との契約も終了。そして秋にはBASEが上場を果たす。EVに転職してすぐに投資先支援の一環としてBASE社の監査役になり、BASEオフィスで過ごす時間も多く、たくさんのメンバーともコミュニケーションとった。個人的に思い入れの深い会社。東証にも初めて行って、打鐘も見ることができた。
 
一つの区切りを感じて、この先の人生について改めて考えてみた。考えた結果、しばらくはこのままVCのお仕事をやっていこう。そう決断した。BASEはパブリックな存在となって羽ばたいていったが、FinTを始め、他にもたくさんの関わっている会社がある。そんな起業家、会社をもう少し近くで見ていたい。そう思った。
 
これまでは太河さんが担当していた会社を引き継ぐような形でやっていたが、「来年からは新規投資もしよう」と決めた。「続ける意思が曖昧なのに新規投資するのはよくない」とずっと思ってきたが、続ける意思を決めたので、新規をやろうと。そう思わせる起業家に出会ったことも大きい。「来年はやってやるぞ!」と決意を新たに2019年は暮れていった。まさか新しい年があんなことになるなんて…。
 

(EV10周年で初めてジャカルタに。刺激的でした)
 

コロナ

2019年に何箇所か地方イベントに参加する機会があり、地方に興味を持った。スタートアップは東京だけのものではない。これから少し地方に行く機会を増やしていきたい。そんなことを2020年の正月に考えていた。
 
そんな折、海の向こうから何やら不穏なニュースがやってきた。新型コロナウイルス。最初は大した話じゃないだろうと思っていた。しかし次第に日本国ないでもその影響が出てきて、渋谷の某IT企業が全面リモートに切り替えるなどもあり、渋谷の街も人が減っていった。トイレットペーパーが世の中から消えたのも思い出される。
 
流行り病とは関係なく、僕の身体にも変調が見られた。動悸、息切れが半端ない。普通に歩くだけでゼエゼエと呼吸が乱れてしまう。「これ、もしかして…」と甲状腺の病院に行ってみたところ、見事に再発。心臓の状態も良くなくて、無理できない身体になったこともあり、コロナ本格化も合間って、自宅からの作業が始まることとなった。
 
コロナの影響で伸びた会社もあったが、苦しい時期をむかえた会社も多かった。みんなそれぞれ頑張って乗り切った。この経験がその後にきっと活きてくると思う。
 
年末には体調も落ち着き、念願の地方遠征も少しずつ始められるようになった。2021年からは結構な頻度で地方に行くようになった。
 
コロナも体調も良くなったり、悪くなったりを繰り返しながら、基本的には良い方向に向かっていると思う。まぁ2023年、再び僕のバセドウ病は再発したのだが…。2024年も引き続き体調の様子をみながら、投資先、全国の起業家、全ての関わる人になんらかの価値を提供できるように頑張っていきたい。
 

(桜島は本当に感動するので、ぜひ行ってみてほしい)
 

時代に適応していく

Withコロナという言葉があったが、その状況に悲観するだけでなく、またそれまでのスタイルに固執することなく、柔軟にその時代に適応していく必要があることをこの数年で僕たちは実感したと思う。
 
10年前、転職してすぐに僕も「柔軟に適応」していく必要を感じた。なんだか同じようなことだなと思う。スタートアップの世界においてこの「柔軟に適応」というのが非常に重要。この世界いいる限り、これからも柔軟に生きていきたい。いや、この世界じゃなくても柔軟性は重要なのかもしれない。
 
10年前に「自分自身の改革」の必要性を感じ、新たな世界に飛び込んだわけだが、それなりに「改革」できた気はしている。成長を実感している。転職したことは僕の人生にとって大成功だったなと言える。ただ100%満足してるかというとそうではない。もっとやれた、もっと成長できたとは思う。まぁその辺の課題はこの先の人生でやっていければいいのかもしれない。多少の不満足感があった方が人は進化できる。
 
 
 

2023/12/29 

この10年

47


 
41歳の本厄の年(2017年)、4ヶ月半で14キロ痩せて「ダイエット大成功じゃん!」と喜んでいたら単なる病気(バセドウ病)だったという話はけっこういろんな人に言ってるので知ってる人も多いと思う。投薬治療で数値は落ち着いた2018年。治ったぞ!と調子に乗って年2回もフルマラソンを走った(どちらも完走)のが2019年。「あれ、なんかめちゃくちゃ息切れするんだけど…」と身体の異変を感じて病院に行ったら再発が判明した2020年。再び治療が再開して、なんとなく治ったっぽい(数値が落ち着いた)のが去年の誕生日前くらい。
 
そして2023年。私は再び表参道の伊藤病院に通っている。そうです、またもや再発です。
 
症状は前回と同じく動悸。少し速く歩いたり、階段を登ったりするとゼエゼエしちゃう。また、薬を飲むのが朝なので(効き目が切れてくる?)夜になると動悸してきて、眠りにくい。まぁそんなこんなで再発を身体いっぱいで感じているんですが、手術とかは今のとこ無さそうなので、それは良かったというか安心した。薬と通院をサボらず、今度こそ治すぞという意気込みでやっていきたいと思います。
 
 
さて話は急激に変わりますが、普段YouTubeをめちゃくちゃ見てるんですけど、最近コムドットをよく見てます。いろいろ炎上もあったりして、敬遠してたんですが、なんかのきっかけで見始めてから、笑ったり泣いたりしながら100本近く見てる気がしてる。
 
コムドットの何が良いかというと、2つあって、1つ目は目標に向かって全力で頑張っているとこ。特に登録者数300万人までの取り組みは本当にすごくて、「仲間と本気で何かを目指す」という尊さをとても感じた。2つ目はその「仲間」。学生時代の友達の貴重性というのは大人になるとヒシヒシと感じると思うけど、本当に大事だよな。彼らは小中学校の同級生グループなわけだけど、そんな絶対的な仲間と一緒に何かに取り組めるって最高だなぁって。昔の友達に連絡したくなった。コムドットには「大人になってしまって忘れてしまったこと」を思い出させてくれたような気がした。
 
そんなわけでコムドットの動画を見ながら日付が変わり4月23日になった。47歳になった。関係のある人たち(仲間)と一緒にそれぞれの目的に向かって一緒に頑張っていきたいし、そんな仲間や学生時代の仲間とこれからも仲良くしていきたい。改めてそう思った47歳誕生日。引き続きよろしくお願いします。
 
 

2023/04/23 

47

Vol.5 カオス【新大宗HiveShibuya物語】


 


「小部屋」という城を手に入れた僕だが、2018年に入ると非常勤役員やってた「前職」の方で少し手を煩わせていて、小部屋にいない時間もそれなりにあった。用を済ませて小部屋に戻ると、中で木下さんがMTGしていることもあった。それもまぁまぁ混み入ったMTGをしてたりして、小部屋に入れずに再び外に出たりすることも。もっとも小部屋に僕がいても木下さんはMTGすることも少なくなく、話してる内容を耳に入れないように努めた。まぁでも小部屋なので耳には入る。


「前職」の方もそれなりに大変で、日に日にストレスが溜まっていった。夏の暑さがピークアウトした頃には、毎晩帰宅時にレモンサワー買って飲んでた。ちなみに下戸です。下戸なのに毎晩飲みというあたりで深刻度がわかる。


 
そんな日々を過ごしていたものの、いつまでもダウナーでもしょうがないので、当時流行ってた「bosyu」で相談者を募ってみたりもした。切れ目なくMTGを組むことにより、小部屋を強制的に独占した。これは良い作戦だった。それにこの時のbosyuで投資先も見つけることができた。今思うととても重要なアクションだったなと思う。


 
同じ頃、7階に入居してた起業家で元EVインターンでもあるゆいちゃんが事業に行き詰まって悩んでいた。たまに小部屋にやってきて相談して7階に帰っていくというのをしてたのだが、これはきちんと立て直さないとマズイなと思って定例MTGをするようになった。それから今日まで定例MTGは続いているが、4年間で驚くほどの成長を遂げた。まぁ僕はたまにご飯を食べさせたり、お菓子を食べさせたりしただけなんだけど。


 
ある日、Hive(新大宗3号館)に隣接する4号館の駐車場から車が消えたことがあった。どうやら「3日間の貸切」とのこと。一体駐車場(しかも汚い)を貸し切って何が始まるのか??と思っていたら、ファッションショーが開催された。斜め上の展開すぎて思い出深い。


 
そんなこんなでカオスな2018年も暮れていくのであったが、2017年に患った病気も回復傾向だったし、様々なストレス原因も徐々にではあるが解決に向かっていってるような気がした。2019年はきっと良い年になるのではないか!という期待感とともに2018年は幕を閉じた。
 
 

2022/10/31 

Vol.5 カオス【新大宗HiveShibuya物語】

Vol.4 小部屋【新大宗HiveShibuya物語】


 
HiveにはBASE社のオフィス時代に会議室として使われていた部屋があった。その部屋はHive成立とともにオビさんの会社が使っていたのだが、オビさんたちが海外拠点でやっていくという感じになったので、その部屋を卒業していった。2016年暮れの話。
 
鬱々とした気分で流浪してた2016年の僕ですが、そのオビさん海外移転を機に、その部屋を実効占拠することに成功した。誰が言いだしたのかは忘れたけど、その部屋は「小部屋」と呼ばれるようになった。年が明けて2017年。オビさんが残していった荷物を粛々と片付けながら、作業しやすいようにカスタマイズしていった。


 
起業家や起業家志望の人、スタートアップの若手社員やSUDAXや三木さんなどのおじさんなど、いろんな人が小部屋にやってきた。ただ、一番小部屋にやってきたのは木下さんだったけど…笑
 


小部屋の外は入居者がすごい増えてきて、机を増やして席を増設したりしてた。増える机に押し出される形で行き場を失ったソファ、テーブルセットを小部屋の中に移動させて、簡単な応接スペースを作ったりもした。そのスペースで数多くのアポをこなした。たまに木下さんが寝てたけど。


最近「木下さんのツイートの日本語が難しい」と話題になってたけど、ツイートだけじゃなくて、会話もすごい難しいんですよ。Hive誕生から約7年、おそらく一番多く木下さんに接した人間の一人と自認してるけど、これだけ長く接してても今だによくわからないことも多い。難解かつ理不尽。木下さんが調子の良い時も悪い時も近くで眺めてきたが、今後は拠点もわかれるので、木下さんに接する機会も減ると思う。解放された!笑という気分の反面、さみしさもあります。
 
 
板前くんや若月くん、中山くんなどの若い起業家を木下さんはどこかから発掘してきてHiveに入居させてた。そしてエニカラ田角くんがHiveに入居するようになったのもこの頃。次世代の才能が集まり、Hiveに活気があったし、木下さんも元気だった。僕は病気で激痩してた(4ヶ月半14kg減)。


 
 

2022/10/14 

Vol.4 小部屋【新大宗HiveShibuya物語】

Vol.3 イベントが加速する【新大宗HiveShibuya物語】


 
絶好調の木下さんは、2016年5月には7日連続、7月には8日連続開催ともはや狂気としか言いようがないペースで「イベントが加速」していきました。この時のイベントは #svmeetup という名前だったようです。そういえばそんな名前だったな。前述のブロガーイベントも5月の #svmeetup の1イベントでした。
 
盛り上がりを見せる新大宗3号館5階ですが、この頃あちこちから新大宗3号館にスタートアップが入居してきました。フラミンゴやCAMPFIRE、イジゲン、キメラ、PATRAなどなど。もっとたくさんいたと思うけど、忘れちゃった…笑 たくさんいて「スタートアップビル」と呼ばれるようにもなってた。新大宗3号館だけじゃなく、1号館も2号館も道玄坂の上の方の新大宗円山ビルもスタートアップ入居が増えた。
 
一方Hiveにも続々とスタートアップが入居していった。「引きこもりを加速する」クラスター、hachidori、スナックミーなど現在では大きく成長している会社も創業期をHiveで過ごしていた。7階の方も盛り上がっていて、GorooとCandleがMAされて新大宗を卒業していったのも2016年。


 
みんながキラキラと頑張っている中、僕はというと、2015年後半から2017年前半は非常にダメな時期で、鬱々としながら生きていた。ポケモンGoがリリースされたので、そればかりやってた。


 
 
木下さんイベントの裏で頑張ってたのが当時EVからSkylandに出向(?)してた廣澤くん(現THE SEED GP)。廣澤くんの仕切りで若者向けイベントもいくつかあったけど、2016年の #90会 と2017年の #9799meetup は非常に盛り上がった記憶がある。 #90会 の方はMAされたばかりの花房くん、金くんなどが登壇し盛り上がった。 #9799meetup の方は97年〜99年生まれの人たちのイベントで、当時18歳〜20歳の人たち。Hiveから人が溢れるほどの大盛況だった。僕は人をかき分けながら家路についたのを覚えてる。


 
 

2022/10/12 

Vol.3 イベントが加速する【新大宗HiveShibuya物語】

Vol.2 HiveShibuya誕生【新大宗HiveShibuya物語】


 
そんなわけでSkyland Ventures木下さん主導で新大宗3号館5階のスペースは「HiveShibuya」としてどんどんカスタマイズされていった。僕は六本木オフィス、渋谷BASEオフィス、(ちょうどその頃)社外取締役に就任した古巣のオフィスなどを転々とする生活を送っていた。たまにHiveを訪れては隅っこの方でリリースされたばかりの『Brain Dots』をひたすらにプレイしていた。
 
オフィスの机や椅子、そして棚の組み立ては、木下さんがTwitterで募ったりして集めていたが、毛利くんは「ほとんどの椅子は僕が作った」と言っていました笑


窓枠がBASEカラーに彩られた会議室は、黒に塗られ、BASE時代のポップな印象からクールな印象にチェンジしました。会議室跡地はHive唯一の個室だったので「僕の部屋にできないかな?」と思ってたのですが、素早くオビさんの会社が使い始めてしまいました。残念。
 
場所を得た木下さんは堰を切ったように大小様々なイベントを開催しまくります。大物ゲストを呼んだり、若者集めてピザパーティしたり、早朝に読書会したり、外国人呼んだり。「イベントの木下」の面目躍如です。ちなみにこの頃木下さんは英語ブームが到来しており、ツイートも英語だったり。あとこの頃から「MAX」と名乗ったりしてます。


今回ブログを書くにあたって木下さんの過去ツイートを漁っていたのですが、この時期はとにかくたくさんの人をHiveに呼んでいたのがわかりました。2016年になっても変わらずイベントを多数開催してた。たしか2016年のGWは10日連続イベントなどやってた気がします。たしかに思い返してみるとこの頃、ほんとたくさんHiveでイベントやってたよなと思う。
 
2016年と言えば「ブログ書け」も忘れられない。木下さん、突然のブログブーム到来で、いろんな人に「ブログ書け」って言ってましたね。懐かしい。当然のようにブロガーイベントも開催され、僕も末席ながら登壇させていただきました。ちなみにイベント前日に「明日のイベント、けんすうさんが登壇予定だったんですが、急遽来れなくなってしまったんで、大柴さん出てください」とオファーを受けました。
 
ブログブームでもう一つ印象深いのは『渋谷で働くガリデブ社長ブログ』です。詳細はわからないですが、木下さんがBranding Engineerの河端さん、高原さんに「1週間で100記事書いて」と言ったとか言わなかったとか。で、実際にBEの二人はそれを成し遂げたという木下さんの無茶振りの凄さと、河端さん、高原さんのコミット力の凄さを感じることができるエピソード。結局これが縁(なのか不明だが)でSkyland Ventures投資先IPO第1号となったわけで、思い出深い出来事です。


 
 

2022/10/04 

Vol.2 HiveShibuya誕生【新大宗HiveShibuya物語】

Vol.1 Hive前夜【新大宗HiveShibuya物語】


 
創業期から関わった前職を辞め、East Ventures(EV)に転職した2014年3月。ちょうど同じ時期、BASEがEV六本木シェアオフィスを卒業し、渋谷道玄坂の新大宗3号館5階に「初めての独立オフィス」を借りた。新大宗3号館5階の道玄坂に面した80坪?くらいのオフィススペース。ただ当時のBASEには少し広すぎたのか、一部をEVが借りることになった。そしてそこを「EV渋谷オフィス」とした。
 
これが僕と「新大宗」の関わりの始まり。
 
当時は六本木のEVオフィスに出社することが多かったが、井の頭線沿線に住んでいた僕は、仕事帰りに井の頭線ホームい近い新大宗ビルに立ち寄ることも多かった。
 
BASEの隣のEV渋谷オフィスには創業期のトランスリミットやdely、Bitstarなどが入居した。皆一様に「隣のBASEが楽しそうで、悔しいというか、いつかは自分たちもああなるぞ」と思っていたらしい。
 
やがて春も終わり夏がやってきた頃、急拡大をしていたBASEが「このフロア全面を使いたい」というので、EV渋谷オフィスは同じく新大宗3号館の7階に移転することとなった。7階に移動した初期には前述のBitstarや『HitoHana』を運営するBeer and Tech(当時は飲食店関連サービスをやっていた)、ゴロー(後のアラン・プロダクツ)、Candleなどが入居した。
 
再び月日が流れ、2015年6月。さらに拡大していたBASEは道玄坂を少し登ったG-SQUAREに移転することになった。そしてBASEオフィス跡地となった新大宗3号館5階をEVが引き続き借りることとなった。とはいえ、EVとしては7階もあるし、少し広すぎる。それに本拠地は六本木なので大規模な運営はできない。ということで、当時井の頭線渋谷駅近くの雑居ビル(現在は山下本気うどんが1階に入ってるビル)にオフィスを構えていたトランスリミットに間借りしていたSkyland Venturesさんを招き入れて共同で運営するシェアオフィスを作ろうというような感じになった。


(↑トランスリミットオフィス間借り時代の木下さん)
 
 
そして誕生したのが『Hive Shibuya』。2015年の夏であった。
 
 
>Vol.2 HiveShibuya誕生
 
 

2022/10/04 

Vol.1 Hive前夜【新大宗HiveShibuya物語】

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先週、三島で開催されたStartup Weekendにジャッジとして参加したのですが、とあるチームが最終ピッチ中にジャッジに対して「あなたの20年後はどうしていますか?」といったような質問を投げかけてきた。ジャッジ3人のうち最初に答えた二人はちゃんとした方なのでちゃんとした回答をしていて、3番目の僕としてはボケた方がいいのかな?と「20年後…生きているといいなぁと思います」と答えた。会場ややウケという微妙なボケ。
 
ただ、この回答、半分はボケだが、半分はマジである。やはり48歳で亡くなった母親の幻影がずっと残っているので、心のどこかで「48歳が一つの山場」と考えている。なので20年後に生きてるかどうか、正直わからないなぁというのが正直なところであり、16歳の頃から漠然と思っていることなのだ。
 
そんなこんなで本日46歳の誕生日を迎えたわけだが、山場があと2年に迫ってきた。僕は本当に48歳の山場を越えることができるのか。5年前にバセドウ病を発症し、一旦回復するも2年前に再発。その時は「やばい、山場越えられないかも」という気持ちにもなったりしたが、なんとか今もやっている。こんな感じでのらりくらり長生きしてしまうかもしれない。
 
のらりくらり生きてるのも良いんだけど、せっかくなので何らかの意義を残していきたい。この先、自分は何をすべきなのか?というのは定期的に、ぼんやりと考えたりしてるが、前述の三島である参加者(コーチ)から「べるおさんが今解いている”問い”はなんですか?」と質問されてハッとした。ぼんやりとは考えているので、一応は答えたが、もっと解像度高くしていかないといけないなと思った。
 
あれから1週間、自分なりにその「問い」を考えている。来年の誕生日、そして山場を迎える48歳の誕生日に「問いの答え」は見つかっているだろうか。48歳を一つのマイルストーンとして考えていきたい。あと2年。
 
 

2022/04/23 

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2021-2022

すでに1月5日だが、簡単に昨年の振り返りをしつつ、今年、2022年の抱負も考えてみようかと思う。
 
 
 

2020年以降型生活様式をアップデート

2021年も2020年に引き続きコロナの影響を受けた一年だった。そしてこれは2022年も続いてしまうだろう。もうそういう世の中だ。これを前提に生きていかないといけない。「コロナのせい」を続けてたらいつまでも自分の人生を歩けない。
 
不自由な面も多いが、良い面もある。半自動的にオフィスに出勤するという行動様式からの脱却。2019年までは何も考えずに出社していた。思えばEVに入る際にタイガさんから「出社しなくてもいいです!」って言われたが、翌日から毎日オフィスに出社した。半自動的にそうしたし、出社しないで仕事をする方法を知らなかった。
 
2020年は「そのうち普通の生活に戻るだろう」と心のどこかで思っていた。しかし2021年になっても全然減らない感染者数。次々に現れる新しい株。「新株発行しすぎだろ」と職業的に思ったりもしたけど、一方でこの生活に完全に慣れつつある自分にも気づき始めていた。もう毎朝通勤電車乗るのは無理かも。
 
そんなわけで、2020年以降の生活様式をより一層充実したものにするため(理由はそれだけではないけど)引越しをした。10年くらい迷ってたが、ついに購入した。5月くらいから物件探しを始めて、8月末に契約。現物引き渡しのため、そこからリフォームを開始し、想定よりも時間がかかってしまったが11月末に引っ越すことができた。築40年のUR物件。URであるが、団地型ではなく戸建型(テラスハウス)。現物引き渡してそれなりに傷んでるとこもあったけど、全てリフォームするのではなく、使えるとこはそのまま残した。せっかくの中古物件なので、全部リフォームしちゃうのはもったいない。
 
前の家は1LDKを1が僕の部屋、LDが奥さんの部屋という使い方をしていた。この変則的な使い方によってリモートワークはある程度機能していたが、夜遅くのMTGは難しい(気がひける)などいくつかの問題もあった。新居は無駄に広いので、そういった問題も解決されたし、お互いのプライバシーは完全に保たれるようになった。物理的(距離的)にコミュニケーションが減ってしまうので、その辺は今後改善していきたい。新居でも引き続き変則的な使い方をしていて、1階(旧リビング、旧和室)が僕のエリアで、2階(3部屋)が奥さんのエリアになっている。
 

(旧リビングの僕のメイン部屋の一部。窓側はそれなりに埋まってきたが、写真には写っていない入り口側はスカスカなのでなんとかしたい。床のフローリングは元のをそのまま残した。)
 
とにかく家が寒いのですが「こういうもんだ」と慣れていくのが重要な気がします。もちろん対策できるとこはやるけど、抗ってもしょうがないことはある。コロナも寒さも。とりあえずこれまで以上に家に手がかかるので頑張ってやっていきたい。
 
 
 

全国行脚が加速した2021


 
2019年末くらいから、東京以外の街を見てみたい、と考えていた。東京以外のスタートアップシーンを見てみたいし、地方の学生、起業家と交流したかったし、正しい情報を伝えたかった。そんな風に考えていて、口にも出したりしてたら、ありがたいことに地方のイベント等にちょくちょく誘われるようになった。せっかく呼んでくれたので少しでも有意義な情報を得てもらおうと全力を尽くした。
 
東京以外に住んでいる起業家も当然ながらポテンシャル高い人はいる。東京スタートアップシーンではまだ知られていない原石を探しに、2022年も各地を巡りたい。毎回1人や2人くらい「これは!」という人に会えるのがすごく楽しい。2021年は福岡で2社、鹿児島(で開催されたピッチイベント参加の起業家)1社に出資した。今年はもっとやっていきたい。


 
ところで、とある街で開催されたアクセラにメンターとして参加した際、そこにいた起業家(?)からこんなことを言われた。「大柴さん、なんでこんなとこまで来たんですか?趣味ですか?こちらとしてはめちゃくちゃありがたいんだけど、効率とか費用対効果とか考えたら来る意味あるのかな?と思ったんです」と。まぁ確かにそうといえばそうなんだけど、世の中全てのことを効率性で考えてしまうのは良くないと思うんですよね。遠回りだったり、無意味に見えるようなことから何かが生まれる可能性もある。そう思うんですよ。そんな人が界隈に一人くらいいてもいいんじゃないかなと。
 
ちなみに2021年は各地のイベント、投資先の合宿等で福岡、鹿児島、浜松、静岡、つくば、京都、長浜、伊豆高原、伊東、箱根、甲府に行った。数えてみたら27泊してた。今年もそれくらいしたい。
 
 
 

読書を模索し続けている


Booklogの本棚。読んだ本の感想はnoteに書いてる。)
 
2020年の60冊と比べると2021年は49冊と読書数が減った。まぁ数は特に問題ではないのだが、年60冊くらいは読みたいものだ。2021年は意図的にビジネス系を減らして社会問題系を増やした。コロナやSNSによって様々な社会問題が改めて浮き彫りになった感もある。そんなこともあり、知識や興味の幅を増やしていかないといけないなと思って、これまであまり読んでいなかったジャンルを読んでみた。
 
課題としては、読書スピードではなく、読んだ内容をどれだけ覚えていられるか。そこに尽きる。インプットしたいから読書をしてるわけで、やっぱりもう少し内容を覚えていきたい。変に数を追うのではなく、何をどう読んで、どう活かしていくのか。そんなことを考えながら今年も本を読んでいこうと思う。
 
 
 

やはり健康が大事

年末からまたメルカゾール飲んでるけど、問題は甲状腺よりも肝臓。お酒飲めないのに肝臓がずっと悪い。肝臓が悪いからお酒飲めないのかもしれない。太りすぎて肝臓に負荷がかかってるかもしれない。ということで(毎年言ってるけど)今年は痩せる。一昨年のバセドウ再発時に心臓が弱ってしまったのでもうマラソンは難しいとは思うけど、ゆっくりとしたランニングくらいならば大丈夫じゃないかなと思うので、多摩丘陵をぼちぼちと走っていこうかな。あとは伊藤くんのジムで投げ込むか。
 
 
 

2022/01/05 

2021-2022