母親が生きた日数を越えた

日付が変わり11月26日。今日は僕が生まれてから17,749日目になる。数字的には特にキリの良いものではないが、僕の人生においては一つの区切りとなる数字。母親が生きた日数を越えたのだ。
 
 
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1992年8月23日昼。叔父(母の弟)と一緒に病院にお見舞いに行った。入院から4ヶ月半。母は毎日徐々に衰弱していった。医者も何もしてなかったわけではない。ただ母は何も改善していない。それでも母は「先生は悪くないから、ちゃんと挨拶とかするんだよ」と気丈に言った。そして擦れる声で「退院したらスイカが食べたいな」と言った。水を飲めない状態だったから、喉が渇いていたんだと思う。「いいね、スイカ。今度食べよう」そんなことを言って病院を後にした。

その夜、父、妹とテレビを見ていたら電話がけたたましく鳴った。病院からだった。「至急来てくれ」と。急いで準備して病院に向かうと母は苦しそうなもだいていた。緊急手術が行われている間、ただ黙ってベンチに座っていた。

日付が変わった8月24日未明。母は病室に戻ってきたが、息も絶え絶えといった感じ。僕らはただベッドの周りで祈るしかなかったが、やがて全てを悟ったかのように母は目を開いて僕らに視線を送り、そして目を閉じた。しばらくすると心電図から「ピー」という音が聞こえた。ドラマなどでよく見かける情景。享年48歳。

父、妹はその場に泣き崩れた。僕は立ち尽くした。

自宅に戻るとすぐに近所のスーパーに走った。走る必要はないけど、走った。そしてスイカを買った。一刻も早くスイカを食べてもらいたかった。もちろん物理的に食べることはできないんだけど、早く用意してあげたかった。真夏の暑い日だったし、もう30時間くらい起きっぱなしだったので足元はフラフラしてたけど、走って買ってきて、母の枕元に供えた。

 
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母は一般的に身体に悪いというようなことはしてなかった。それでも死ぬ時は死ぬ。どんなことをしてても死ぬ時は死ぬ。個体差なんだなと。個体は遺伝によって伝わっていくので、僕も48歳で死ぬ可能性あるなというのもその時強く思った。

一般的には寿命はどんどん伸びてるし、僕が48歳で死ぬ可能性ってのは結構低いとは思うんだけど、可能性はずっと感じていた。41歳の時にバセドウ病になり、その後も2度再発してるので、「これはもしや…」と思うこともあった。日常の会話で「死ぬかもしれないからさー」とたまに口にしてたが、半分冗談だけど半分はマジだったりする。

母が生きた日数17,748日を越える時がいよいよ近づいてきたが、頭のどこかで、生きて今日という日を迎えることができるか半信半疑だったりもした。そしてついに越えた。

 
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僕はあの時16歳だったので、「48歳7ヶ月」というものがよくわからなかったけど、実際にこうやって母が亡くなった日数になって思うのは、「さすがに早過ぎるな」と…。そんなに生に執着のない僕でも「もうちょっとは生きたいな」と思うので、あの時の母はもっと生きたかっただろうな。改めてそう思った。母がもし生きていれば80歳。あの時中3だった妹にはなんと孫がいる。母にとってはひ孫。びっくりだね。

僕はもうちょっと生きそうなんで、死ぬ時まで頑張って生きようと思う。
 

(親子ともにジャイアンツファンじゃないのに、なぜこのTシャツを着てるか謎なのだが、4歳の僕と母。あんまり写真無いんだよなぁ)

 
 

2024/11/26 

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